池澤夏樹『春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと』 震災をめぐって考えた記事はたくさん読んだが、 池澤ワールドは、また別の視点を与えてくれた。 洪水や津波などの災害が発生している中で、 少したとえは不謹慎になるのかもしれないのだが、 水が少しあふれて、地を薄く覆うようなイメージで 滋養にあふれるメッセージが細胞にしみこんでいくような 静かな感動を覚えた。 マスコミに出回る被災地の写真では、 建物の壊滅的な被害状況、そして何もなくなってしまった土地は 大々的に映し出される。 そして数字として、亡くなった人の数が報じられる。 だが、「亡くなった人たち」のリアルな映像はない。 だが映像は”ある”のだ。 亡くなった人たちは”いる”。 池澤さんが指摘するように 私たちは、自然に意思はないことは知っているが、 そこに意思を求めたくなる。 (津波が)「あと20秒遅かったら」という言葉は、 誰に対して発せられる言葉なのか。 とはいいながら 人間は、自然に話しかけながら(春をうらんだりしながら) 生きていく。 池澤さんが引いた 「深草の野べの桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」 (古今集)があまりにも、心にしっくりと来る。 ○ 自然に意思はないが、意思があるかのようにとらえる、 その事例として、宮澤賢治の童話『水仙月の四月』が 引用されていた。 思わず、原典にあたったが、自然の残酷な事象をも このような「童話」という形で、とらえなおす姿勢。 水仙月の四日 あらすじ 自然との対話というと、 スピリチュアル系や宗教的なものとして、 構える向きもあるかもしれないが、 小さい頃、イベントの前のてるてる坊主は、 普通にやっていたような気がする。 そして対話は、生きている人の間だけのものではない。 いつぞやに ワールドカフェ(対話イベント)で、外国人がある人の欠席を伝えるのに 「今日○さんは、亡くなったお父さんとの対話のために、 この会は欠席されています」 と伝えていたことを思い出す。 ![]() 実は去年も京都に来たが、まったり町のカフェや雑貨屋に入り浸って、少ししか 寺は見なかった。 今日は、真如堂、ヴォーリズ建築の住宅、詩仙堂、下鴨神社を回った。 写真は、駒井家住宅。30坪ほどのあまり大きくない家だが、徹底的に収納にこだ わっているので、比較的広く見える。 ご主人は、遺伝や植物を研究する学者だ ったが、二人止ともクリスチャンだったことと、奥さんが、神戸女学院の出身だ ったことで、ヴォーリズに関係ができたらしい。 寺の庭は、まだ、緑ばかりだったが、やはり、雑念を忘れさせてくれる。 関東でも鎌倉のようか古都はあるが、なかなか足を運ぶことがない。 「そうだ、京都行こう」のポスターは、疲れたサラリーマンの心をくすぐるが、ある程度遠いから、くすぐられるのか。 ![]() このところ毎週末、遠出をしているが、今回は久しぶりに友人に誘われての旅行。 友達と一緒に観光って、久しぶり。 友人が、たまたま出したアンケートが当選し、なんと東山、銀閣寺の近く、吉田 山荘に宿泊ペア券が当たったということで、私はご相伴に預かることになったのだ。 初日の土曜は台風の影響か、夕方大雨だったが、そもそも現地集合にしたことと 、私自身がウィークデーの疲れがたまっていたこともあり、山荘に着いて、夕飯 をいただいただけで終わった。 もっとも、夕飯は非常においしい和洋折衷の懐石だったが、。 次の日曜日は、雨があがり、観光に専念することができた。 観光に専念して、仕事を久しぶりに忘れた。非日常。 ![]() 大震災は、やはり、現地に行かないと、日本、将来について本当の語りはできないと、自分自身で思い込んでいた。 95年の阪神淡路大震災で、様々な事情で、動かなかった自分の反省や負い目かもしれない。 「百聞は一見にしかず」 やっと、後れ馳せながら、被災地に行くことができた。 作業場に行くために、市街地、海岸脇をバスで通ったが、やはり、松がほとんどなくなった海岸線、市街地をみて、言葉を失った。 なぜテレビやネットで見るのと、現実で見るのは、こうも違う印象となるのだろう。 バスの中でも、瓦礫が固められて、大きなホテルやビルしか残っていない海岸に、沈黙が流れた。 作業は、民家の畑の草刈りと瓦礫撤去。暑いながらも、手慣れたボランティアの方もいらっしゃり、かなり作業は進んだ。 明日も同じ作業を行う予定日。
NHK短歌をみた。
選者のKさんが、20年来の知人だからである。 Kさんいわく、5月からは毎回、ゲストが出演する。 番組の最後のほうで、Kさんと、ゲストの女性の小説家が、対談をする場面があった。 短歌は、情景を描くことに集中しており、情景より意味を求めてしまいがちな小説からすると その点は敗北である、というようなことを感想にされていた。 Kさんは、 どちらかというと、歌に意味をこめたくなりがちなので、 大切なことを言ってくださった、とコメントをした。 どちらもその道を究めている方の意見で、どちらにも与していない第三者からは 計り知れない、文学、芸術のあり方をやりとりしているのであるが、 非常に興味深く拝見した。 意味を求める、こめたくなるのは人間の性であり、 なんらかの主張なり、メッセージなりが入っているのが、芸術だと思う。 松岡正剛なら、編集というかもしれない。 短歌にしろ小説にしろ、長短はあるが、ある情景を感じとり、切り取り、描く。 読者は、その情景の背後にある作家の意図を読み取り、その心意気に感じ入る。 勝ち負けの問題ではないのだが、 短歌は短いだけに、どこを切り取るかという取捨選択が切羽詰っているだろう。 そんな感性の研ぎ澄ませ方を自分自身は日常生活で全くやっていないことに いまさらのように気がついた。 そういう感性が必要なのか不要なのか。 別になくても生きていけるといえばそうなのだが、 必要だと言い切りたい、自分がいる。 そういう余裕を持つ人間になりたいと。
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